2021年11月01日

「『三四郎』は推理小説であった」

後期の読書会では、夏目漱石の『三四郎』をじっくりと読んでいる。そして分かった。『三四郎』は極めて高度な推理小説であると。推理小説とは、江戸川乱歩の定義によれば、「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく経路の面白さを主眼とする小説」である。この定義の「犯罪」と言うところを「心の罪」と言い換えれば、すっぽり『三四郎』に当てはまる。

 漱石の小説のほとんどは、一見何が言いたいのか全く分からない。殺人事件が起こるわけでもなく、主人公たちが対決するわけでもなく、プロットが劇的に展開するわけでもない。ただ、主人公たちでの日常的な体験と、それにまつわる心の動きが淡々と描かれているだけである。これを一人で読んだとしても、何が言いたいのかさっぱりわからない。

 ところが、読書会でみんなの力を合わせて読んでみると、さりげない出来事がすべて心の重大問題の伏線になっていて、それらから登場人物たちの心の罪や日本社会のひずみ、そしてそれらから逃れることのできない人間の哀れさや健気さが露わになってくる。

 寮の読書会があって、初めてそのような漱石の素晴らしさが明らかになった。また、漱石の高度な小説があって、読書会というものの素晴らしさもまた明らかになった。世の中にはみんなで読んだ方が良い本があるのだ。

 ちなみに、そのような本の筆頭は聖書である。聖書こそはみんなで読んで初めて理解できる本である。寮の日曜集会は、みんなで聖書のなぞを解き明かす読書会のようなものだ。


寮長 小舘美彦

posted by 春風学寮 at 11:03| 日記